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入行当時
本当のことを言うと、実は就職活動ではメーカー志望でした。その中で、一応いろんな業界を見てみようと思って、活動していたんです。そこで出会ったSMBCの先輩社員の方がすごく生き生きとしていて、一緒に働きたいと思い入行して、という感じなので、皆さんに語れるような立派な志望動機があるわけではありません。ただ、お金は人生につきまとうものなので、自分の役にも立つし、お客さま一人ひとりの人生に寄り添えるんじゃないか、とは思っていました。ですので、入行してゼロからいろいろ学んでいったという感じです。配属されたのは牛久支店。牛久というのは、つくば市の南にある市です。そこで、ロビーでのお客さまの案内やクレジットの獲得からスタートし、3ヶ月後には店頭でお客さまと接する先輩の後ろで事務手続きを学んでいきました。2010年当時は、積極的に支店でも住宅ローンの取り扱いをしていたので、折込チラシのポスティングをしていたのも覚えています。入行から半年後の10月、先輩社員の産休が決まり、200名程度のお客さまを担当できることになり、資産形成層やリタイアメント層のお客さまへ提案する日々を送るようになりました。予想していたよりも早い時期に多数のお客さまを担当させていただくことになったため、すごく不安でしたが、商品を懸命に勉強し、先輩の背中を追いかけていた、そんな時期だったと思います。
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入行当時
3年目にはファイナンシャルコンサルタントとして運用資金の豊富なお客さまや地元企業のオーナーなど幅広い担当へ。私が個人的に好きな商品の一つである遺言信託は、目の前のお客さまだけでなくその次の世代にも役に立て、感謝されるやりがいのある業務で、それを初めて受託したときのことをよく覚えています。4年目には、茨城県県央に位置する水戸に拠点を構えていた東関東法人営業部との法個連携担当者にも任命され、法人と個人の協働も推進。週一回は牛久から水戸へ車で通い、法人でお取引のある企業のオーナー個人のお取引の開拓に取り組みました。仕事に追われ辛いときもありましたが、新しいことやいろんなことをやってみたいという気持ちは当時から強かったので、スキマ時間に勉強に取り組み、ファイナンシャルプランナー1級の資格も取得しました。
人間はやはり初めての場所は不安になったり、緊張したりするもの。私も東京都足立区の千住支店への異動が初だったため、仕事はもちろん、行内の人とうまく関係が築けるかな、と心配していたのを覚えています。実際、飛び込んでしまえば、そんな心配は必要なかったな、と思うことばかりですが、今でも新しい環境は緊張したり、不安になったりするので、これは私の性格かもしれません。千住支店では、地盤が広範囲であったため、一日中営業に出ている日々を過ごしていました。その中で強く感じたのは、SMBCファンというお客さまがこんなにも存在するんだということ。SMBCの「人」がいいから付き合っている、という声をたくさん聞きました。正直、商品そのもので差異をつけづらいのが金融商品です。逆に言えば、だからこそファイナンシャルアドバイザーの腕の見せどころ。ただ、商品を提案するのではなく、お客さまが何に困っているか、お客さまにとってこれから何が必要になるのか、そのようなことを考え抜いて、お客さまのために提案していく。結局は担当者によって提案のストーリーは大きく変わるのだと思います。そして、熱意を持って歴代先輩たちがお客さまと向き合い続けてきた結果が、SMBCのファンを生み出しているいるんだ、と思います。
日比谷エリアへ。これは転職したくらいの衝撃を受けた異動でした。ウェルスマネジメントバンカーとして上場企業創業者一族や非上場企業オーナー中心に200名程のお客さまを担当することになりました。担当させていただく一番規模が大きいお客さまの総資産は1,000億円。お取引の規模が大きいことにより、提案していくものも大きく変わり、まさにゼロから仕事を学んでいくことになりました。もちろん、ゼロから学んでいる中で、成果が挙がるはずもありません。着任半年経っても、主だったものを生み出せず、焦っていた私を救ってくれたのが当時の上司の言葉。
「数字は後からついてくる。今はお客さまと仲良くなることが大切だから、リレーション構築に集中してほしい」当時は本当に焦って、追い詰められた気分になっていたのだと思います。この言葉を聞いて、すっと肩の力が抜けた感覚は今も忘れていません。それからは、できることをやろうと決意。新聞に頻繁に載るような会社のオーナーに会えるチャンスがあるんだ、と気持ちを切り替え、毎日、前向きに楽しんで過ごすようになりました。競合も多い中、自分ひとりでできることの限界を感じ、法人営業部、本部の各専門部署、グループ会社との連携を図り、案件を組み立てていくことで上場企業創業者への融資、遺言信託受託など、少しずつ成果も出していけました。とても大変でしたが充実していた、それが日比谷の4年間だったと思います。
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日比谷支店時代
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日比谷支店のメンバーと
さいたまエリアへの異動で課長に昇格し部下を持つ難しさを知りました。自分が行ってきたことを言葉にして教えること、多様な人材が多いリテール部門で人をまとめて組織を率い運営していくことなど、今までとは違う難しさに直面しました。その中で、心に決めていたのは、担当者に近い管理職であること、そして、担当者が心置きなくお客さまに向き合えるような環境を整えていくことです。担当者として自らお客さまにアプローチできない分、俯瞰した視点から行動するようになり、推進に関わる運営や方針出しなど、自由にやらせていただいたエリア長には感謝しています。また、そうして頑張った先に、担当者のときとは異なる管理職の喜びがあることを知りました。部下の頑張りや努力が報われて案件がうまく成約できたときなど、自分の中からこんなにも嬉しい感情が湧き上がってくるんだと、驚きました。
正直、支店長に任命されるとは思っていなかったですし、本音を言えば、あと二店舗、せめて一店舗、課長職を経験したいなと思っていて、人事にもそういう話はしていたんですが、蓋開けてみたら、あれ?という感じです(笑)。私が入行したときの支店長と言えば、若くて40歳後半、ほとんどが50歳くらいの方でそのイメージが残っていましたし、SMBCもどんどん変わっていく中で、薄々は早く拠点長になるのかもと頭の片隅にはありましたが、まさかここまで早いとは。99%の不安と1%の楽しみという心持ちの中、もちろん荻窪支店のメンバーには不安だよとは言えないので、その不安を抑え込んで「私と一緒に頑張りましょう」とスタートを切りました。支店長になって一番感じたのは、今までの拠点長への感謝。人事関係や月次検査など、今まで見えていなかった仕事がたくさんあることを知るとともに、リスク判断やコンプライアンス判断など迅速かつ的確に行っていく責任の重さを痛感しました。私が拠点長としてやらなければならないことは、メンバーみんなが一生懸命頑張れる、その舞台を整えること。困っている人はいないか、何かやりにくさはないか、そういうところに目を光らせていきたい、とつねに意識していますし、メンバーと同じ目線で取り組むことも心がけ、担当者と一緒に自転車を漕いでお客さまのところにも行くこともあります。面談したお客さまからは、「女性支店長応援しています」と言われることもあり、それは嬉しいのですが、そんな言葉が出ないくらい、もっともっと女性の支店長が普通になったらいいなと思いますし、そういう流れをつくっていくのは銀行の中でも挑戦を支援する文化があるSMBCなんじゃないかとも思っています。そのためにも、メンバーと一緒に走り抜ける支店長でありたい、そう強く思って、奮闘していきます。
チャレンジしたい気持ちをしっかり汲み取ってくれるのがSMBCの特徴だと思います。数万人働いている中で、黙っていて汲み取ってもらうというのは難しいですが、努力して意志を表明しすれば、希望は叶えてくれる会社だと思います。SMBCにいると、挑戦できることは当たり前なので普通のことだと思ってしまいますが・・・。銀行、特にリテール分野は「今後どうなの?」と言われることもありましたが、コンサル業はなくならないと考えていますし、本当に人生に寄り添っていくことで、非金融分野も含めたもっともっと違う価値、大きな価値を提供していけるようになっていくと思います。これからは支店のあり方も変わっていくはず。駅前ではない場所へはもちろん、支店がときには金融リテラシーを養うスクールや、健康や生活などの全般的な情報拠点、もしくは、全く違う形になっていくかもしれません。そのような新しいあり方を模索して、創りあげていく、そんな道を皆さんと歩んでいきたいです。それはすごく面白いはずですから。挑戦することはたくさんありますね。
京都出身の私が就職のときに強く思っていたのは、関西でずっと働き続けたいということ。東京、ましてや海外なんて考えてもいませんでした。本音を言うと大阪も嫌で、自分の生まれ育った京都で生きていきたかった、それほど愛着のある地元。でも、当時は景気が悪く、街の呉服屋さんが倒産するなどを目の当たりにし、金融であればそれを守れるんじゃないか、と考えました。それで、関西で生まれた者にとってなじみの深い住友と名前のついた三井住友銀行に入行。住友なら関西で働き続けられると単純に思ったんですね。入行2年目からは中小企業の営業担当に。心に残っている案件では大手電機メーカーの下請でブラウン管テレビ部品の製造を行う中小企業の事業シフトがあります。(みなさんの中にはブラウン管テレビ?と存在も知らない方もいらっしゃるかもですが(笑))その企業に対してブラウン管の時代は終わっていくこと、そのために新たなビジネスモデルの構築が必要なことを説き、常務CFOと現業からの緩やかな撤退を協議。優良な本社用不動産および工場跡地を有効活用した不動産賃貸業へのシフトを提案しました。時代の趨勢を読み、変化に準備することで、お客さまに貢献できた案件だったと思っています。
経営再建中の大手電機メーカーへ出向。これが、自分の目線をグローバルへ引き上げてくれた一つの契機でした。経理部に在籍し、売却する事業のデューデリジェンス(※価値やリスクなどを調査すること)を行っていくわけですが、当時私は入行5年目。それなりに一人前になったと思っていましたが、知識も経験も未熟、会計知識も足りていませんでした。正直、出向時点で仕事の9割は分からない状態。夜8時、9時に仕事が終わってから夜中2時、3時まで4ヶ月ほど本を読み込み、最低限の会計知識を勉強。大学受験以来、最も勉強した時期でした。また、右も左もわからない状態でしたので、仕事中でも社員の方に「これなんですか」とよく聞いていました。最初は相手も戸惑ったと思いますね。経営再建を推進するSMBCからの出向者としてチェックし、何か言ってくるのかと思いきや、何もわからず聞いてくるのですから(笑)。でもそのうち、私が何か頑張ってるのが伝わり、教えてやろうか、みたいになったんです。この後もそうですが、自分の成長は半分以上、お客さまのおかげ。お客さまに育ててもらったのだなと、今こうして振り返っても思います。また、仕事をする中で海外のローカルスタッフやステークホルダーとやり取りすることがあり、大阪にいながら自然に世界とつながっていったというか、少しずつ世界へ目線が広がっていったのもこの時期でした。出向体験は本当にしんどいことばかりで、徹夜で説明し、なんとか監査から公正妥当と認められた決算説明、ノンコア事業の売却交渉、、、ここでは語りきれないエピソードはまだまだあります。ただ、そのときのしんどい経験があったからこそ、今の自分の足腰は鍛えられたとも感じています。本当にたくさんの思い出深い経験をさせてもらったので、いつかみなさんと直接お会いできたら、そんなエピソードもお話したいですね。
出向から帰還。別の企業の担当になる可能性がある中、自ら上司に直訴し、出向先の電機メーカーの担当を継続しました。これは、出向時に社員の方に様々なことを教えていただいたという感謝があり、なんとか恩返しがしたいという想いが強くありました。当時、取り組む中で一番印象に残っているのが、某工場の売却です。背景などは詳しくは話せませんが、2、3ヶ月でクローズしないといけない状況でした。通常、そのような売却、M&Aはどれだけ短くても1年程度の時間をかけて行うものですが、やむを得ない事情がありました。ただ、そんな短期間でのディールに付き合ってくれる相手が、なかなか見つからない。ようやく相手先が見つかっても、今度はファイナンス組成で問題が生じる。今までに前例がなく、できないという判断になりかけたんです。そのとき上司と話したのが、「前例があるないではなく、本当にこれが正しいことかどうかというのをちゃんと突き詰めてこの案件に臨もう」ということでした。その後、行内上層部での激論、本当に文字通り激論を経て、ギリギリの判断でなんとかGOが出ました。自分たちの教科書に載ってないと立ち止まってはいけない、ということを学んだ出来事でした
正直言うと、私は乗り気ではなかったんですが、急に行けと(笑)。ただ、行ってみると、ちょうどその時期は担当先の電機メーカーがM&Aにより新たな親会社の傘下に入るPMI、統合プロセスが進んでいる時期だったため、大連、北京、深セン、香港まで中国各地域に、グローバルのトランザクションを提案して回るなど、取り組むことが非常に多く、自分が責任を負ってやれることが面白くて。3ヶ月という短い期間でしたが一生懸命勉強したら中国語も少しは上達し、ローカルの人たちとの交流も増えたんです。その中で衝撃だったのが、インフレの国で何が起こっているのかを肌で実感できたこと。私は物心ついたときからずっとデフレしか経験してこなかった。そのためインフレが起きて、消費者物価指数があがって、給料のベースアップが起こっている国で金融が経済をまわしていくことを肌感で知れたことは大きかったですし、何よりもみんなが何か前向きで、必ず明日は今日より良くなるって思っている。そういうマインドは日本人にはもっと必要だし、そういうとこに日本も行かないと、と本当に強く思いました。
上海での経験が大きかったんでしょうね、今まで海外なんて考えていなかった自分が上海から帰国後すぐに、また海外に行きたいと血迷ったようなことを言ったのですから。そうしたら返ってきた言葉が「もう少しちゃんと英語を勉強してくれないか」。それから必死に勉強し、シドニーに行く機会をもらえました。オーストラリアに行けてよかったことの一つが、自分の仕事がグローバルにインパクトを与えていると実感できたこと。日本にいるとわからないかもしれないですが、オーストラリアからすると日本はすごく大事な国なんです。第二次世界大戦後にイギリスから距離をとられたオーストラリアが、石炭や鉄鉱石を高度経済成長の日本に買ってもらうことで国を成長させていった、という60年くらいの歴史があり、そのため日本のプレゼンスが高い。そしてもう一つが、全く違う出自の人と仕事ができたことです。それは、オーストラリア人というだけではなく、銀行員以外の専門家です。たとえば、プロジェクトファイナンスの資源案件のヘッドは世界最大の鉱業企業BHPビリトンにいたジオロジストで、「この山の〇〇の比率はどうで、やったほうがいい」とか「この建設機材はひっくり返ったら元に戻らなくなるから気をつけたほうがいい」など専門家ならではのいろんな話を聞き、面白かった。再エネ案件に関わる人の中には、原子力発電所の設計書を作成していた方がいましたし、アグリバンカーの方は「この土地でこういう灌漑農法をやれば人参は何センチを越える」など延々に話し始める。バランスシートとか損益計算書の外側にあるお客さまの実態、それを深く知っている専門家たちと働くことで、違う視点を学んだと思います。またアグリバンカーとともに仕事をする中で、強く感じたのは日本の農業と海外の農業は全く違うということ。いろんな問題がありますが、将来的に日本の農業も収益産業にしていかなければならない、そこにもいつかは取り組んでいきたいと、今でも思っています。
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石炭炭鉱のサイトビジット
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シドニー支店で同僚たちと
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シドニー駐在員でリレーマラソン
帰国後、東京に赴任し、SMBCと親密な関係であるNECを担当。ただ、同じ電機メーカーでもITに注力し、5GやDXの波に乗って事業を拡大しているNECは過去の担当先とは全く違った。テクノロジーのレベル感が高く、やっていることの実態把握ができないのが現実で、それが当初はつらかった。結局、AIの資格の勉強に取り組んだり、数学がわかってないと厳しいと感じて高校時代の統計の教科書を引っ張り出してきて読んだり。ただ、ここでも、教えてくれる先生みたいなお客さまに出会うんです。わかっていない中でも、毎日いろんな部署に通って、「こうあるべきなんですよ」ということをずっと語って何回も提案していたら、おかしなやつがいると当企業の中でも話題になっていたみたいなんです(笑)。役員クラスの人が時間とって、「おまえ違う、こうだ」みたいなのを教えてくれるようになり、少しずつ理解できるようになってきました。たまにお客さまからも「金融のプロでいいじゃないか、なんでそこまで知ってくれようとするんだ」ということを言われることもあるのですが、私にとってそれって普通で、すごく仲良くなりたい友達のこと、恋人でもいいですけど、知りたくなるじゃないですか。知っているが故の説得力が増すし、どんどん知ると好きになり、もっと知りたくなっていく。こういう技術はどうやって生まれたとか、その根幹となると当然、理科系の大学を出たすごく頭のいい人たちが取り組んでいるんですけど、「お、よく知ってるじゃん」、と言ってもらえる担当者でありたいなと私は思っているんです。
NECがグローバル市場で再び輝くために必要なM&A戦略を支えるファイナンスだけでなく、当社のコア事業でなくなった子会社に対して、新たなパートナー候補とのアライアンス戦略を提案することで、事業ポートフォリオの再編をサポートしてきました。お客さまの成長戦略の肝に関われる仕事は本当にやりがいがあります。
また、新興国の通信ネットワークを支える当社が手掛ける複数の案件(ウズベキスタンへの通信網構築プロジェクト、パラオ宛の海底ケーブル敷設等)をファイナンス面で支援してきました。世界で活躍する日本企業の応援団としての仕事は、自分の視野を広げてくれます。
さらに当社とは、銀行とお客さまという関係を越えて、Fintech領域の共創パートナーとしてともにビジネスを作っています。バーコード決済事業やBPO事業での合弁会社の設立から自治体のDXを支援するコンソーシアムの共同立上げに至るまで幅広い分野で一緒に仕事をしています。こういった経験は、今後銀行の進むべき方向を考える上で、非常に貴重な機会となりました。
今後、海外に出てマネジメントをしてみたいという気持ちはあります。が、それだけでなく、SMBCをもっと新しい形にしていきたい、という思いを持っています。NECという本邦有数のデジタル企業と接した上で自らの会社を見ると、現行の銀行業のビジネスモデルはもっと変革が必要である、と思います。デジタルと銀行はどう向き合うか、銀行の持っているデータや膨大な顧客ネットワーク、それをどうやってマネタイズしていくのか。すごく大事ですが、難しい局面にあると思っています。ただ、SMBCには、お客さまのことを誰よりも理解し、成長に寄り添おうという人財がたくさんいます。新たな武器を手にすれば、一層お客さまに必要な存在になれると確信しています。何より、過去からもSMBCは環境の変化に対応してきた会社。そのメンバーである私たちが、ぼーっとしてるわけにはいけないですよね。様々な場所で多くのお客さまを担当してきた中で、SMBCはお客さまからも社会からも新しい挑戦を期待されている、本当にそう感じています。
地元から出たくなかった保守的な人間が、気付けばグローバル市場に目を向け、そしてデジタルにより銀行ビジネスを変えたいと思うに至るわけです。私の価値観を180度変えてくれたSMBCと担当させてもらったお客さまに心から感謝しています。
文字通り、希望とやる気にあふれて入行。社会人として華やかに働く姿を勝手にイメージしていたんですね。でも、実際は違った。元々海外に行きたいと希望は伝えていたので、早くから外資系企業を中心に担当させていただいたのですが、気持ちばかり焦って、営業に行っても何も話せず、ただ雑談しただけだったなと思いながら帰ってくることばかりでした。そういう感じだったので、帰社しても報告することがなく・・・。その中で感じたのは、上司や先輩が育てようという気持ちでご指摘くださって、すごくありがたいということ。当時は珍しかった女性総合職とはいえ特別扱いせずに、一人のビジネスパーソンとして厳しく育てようとしてくれる期待になんとか応え、少しでも成長していこうと取り組んだ時期でした。
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入行1年目
外資系金融機関の営業部へ異動。しかし、その年の9月にリーマンショックが起こり、先輩から担当を引き継いだ翌日から厳しい交渉となりました。金利が跳ね上がるとともに、短期のお貸し出ししかできない状況。当時は本当に大変で、金利交渉している夢を見たり、お客さまのビルに入ることをためらうこともあったり。お客さまから厳しいお言葉をいただくこともしばしばでした。その中で自分にできることは、市場部門から情報を集め、高い金利になる理由をきちんと説明すること。それに加えて、融資以外の各種情報提供をスピーディに行うことなど、少しでも信頼していただける担当者になることだと考え、誠心誠意、懸命に取り組みました。そうして、金利が落ち着く頃にはお客さまとの関係も構築でき、営業に行くのが楽しくなるように。苦しい状況はなんとか乗り越えられるもの、そして、その先には楽しいが待っていることを知りました。
公募制度にエントリーして海外へ。部署は選べず、受けた辞令は米州審査部。営業の道を進んできて、性格的にも緻密な分析をする審査ができるようには周囲の人からは思われておらず、「なんで河﨑が審査?」と言われることが多かったです。ただ私自身、お客さまを分析して提案することや、融資決裁をとるために稟議を書くのは好きだったので、やってみようか、と。赴任して、ニューヨークの街並みやいろんなバックグラウンドのある方がいるオフィスにはワクワクしたのですが、業務になると・・・。今思えば、米国人上司も審査経験がない日本人がチームに初めてやってきて、どう扱っていいのかわからなかったのだろうと思いますが、なかなか仕事を振ってもらえない状態。その中でも、自分がやれることで貢献しようと東京の本部宛の報告書やそれに伴うポートフォリオ分析、エクセルデータの集計など、現地スタッフがやりたがらないことに率先して取り組み、時が来るのを待っていました。そうしてやっと1年後くらいに、ポンと稟議書を渡されたり、フロントとの打ち合わせに呼んでもらえたりするように。当時、米州拠点の注力ビジネスであった借入金を活用した企業・事業買収、Leveraged Buyout(LBO)の案件を任せてもらえたため、フロントの方とともに自分たちで新しいポートフォリオをつくっていく挑戦には、大きな充実感がありました。「ともに」と言いましたが、これはアメリカに行って驚いたことでもあります。日本で今まで私が経験してきたのは、営業部員が稟議を作成し、審査部がそれを審査する、そして、何かあれば営業部員が審査部員を説得するものでしたが、アメリカでは全く違いました。どうしたらこの融資を実行できるかをディスカッションして、営業部と審査部が一緒にビジネスをつくりあげていく、これはすごく楽しい日々でした。年下だろうと気にせず、対等に議論できる空気もとても心地良いものだったのを覚えています。
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ニューヨーク支店の同期と
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米州審査部時代の上司と
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ヤンキー・スタジアムで野球観戦
米国駐在中に妊娠。アメリカで出会った別の企業に勤める夫をアメリカに残し出産のために帰国。夫も帰国すると言っていたのですがなかなか帰って来ず、帰る帰る詐欺だなと思いながらワンオペ育児になりました(笑)。「仕事を辞めるという考えはなかったのですか?」と聞かれることもありますが、仕事は楽しかったので、職場に戻りたいという気持ちは非常に強かったです。体力的には辛かったですが、上司の理解があり、残業せずとも仕事ができる環境を作っていただいたのには今でも感謝しています。ただ、帰国した時は最若手だったのが、どんどんメンバーが替わり、気づけば筆頭担当になりました。自由にやらせてもらっている立場から、徐々にチームを運営していくことを意識するように。どういう機会を与えていったら若手の成長曲線がもっと高くなるかを上司と議論したり、審査実務において実態と合っていないルールがあればルールメーカーである別部署に相談したり、今までとは違う視点で業務に取り組むようになりました。
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育休中にニューヨークで米州審査部の同僚と
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次女の2歳の誕生日
マネジメント経験はまだ浅く、リーダーとは、と語れることはあまりありません。メンバーは非常に若く、外国籍の方もいますし、勉強してきた国も違う、本当に多様です。やる気が入るスイッチも違うので、バックボーンに流れる文化なども考慮し、一人ひとりそれぞれに最適なマネジメントを心がけています。ただ、メンバーはみんな若いので米州審査部や欧州審査部などの海外の地域審査部のベテランとの交渉に打ち負かされることも多くて。なので、担当者と一緒に考え、走っている日々です。今は、メンバー、一人ひとりを海外審査部の企画部員として育成することに注力しています。今後は、海外審査部が抱える課題を私たちが何か提案し、実行することで解決・改善できるようなことができたらなと考えていますが、そこまでにはもう少し時間がかかるかなとは感じています。
営業から始まったキャリアですがアメリカでの駐在を経て、今では審査に携わっています。最後にお話したいのは、この審査のことです。審査と言うと営業部が持ち込んだ案件をただ判断する、未だにそのようなイメージが強いなと感じています。しかし、お客さまのニーズが多様化し、銀行のあり方が変わる中で、日本における審査のあり方も私がアメリカで経験してきたような形に変化しているのは事実ですし、そうしなければ価値を生み出していけないと思います。審査は見ている案件の数が多く、様々な情報も有しています。それらの情報を営業担当と共有しながら一緒に案件を組み立てリスクテイクすることは、非常にやりがいがあり、面白い仕事だと私は感じています。新しい審査の在り方をより多くの人に知ってもらい、営業と審査が今以上に連携しお客さまにより多様な提案ができれば、おそらく銀行も、SMBCも、もっと新しい姿になっていけるのではないかと考えています。ちなみに私自身の今後で言えば、また海外へ行きたいな、と。やはり現地に行かないとわからないことはたくさんあるので、現地で実際の案件やマーケットに触れたいという気持ちは強いですね。いつ行くのか、子どもたちだけ連れて夫を置いていくのか、みたいなことも考えています(笑)。夫は止めはしないと言ってくれますが、やっぱり子どもと離れるのは少し寂しそうではありますね。
学生から社会人へ。こう言葉にすると簡単ですが、そこには大きな狭間があるのを実感した1年間だったと言えます。右も左もわからず、自分が何者でもないことを肌身で感じました。そのときの何もできない自分への悔しい気持ちや焦りは今でも鮮明に覚えています。でも、振り返ると大変な時期でしたが、大切な時間だったとも思います。社会人になれた、社会人にしてくれた、そんな時間でした。ですので、成果は何も出せませんでしたが、自分の土台を鍛えてくれたこの場所への愛着があり、次への異動が決まった送別会では大泣きしたことも覚えています(笑)。今でも大宮に降り立つとあのときの情景が心の中に浮かんできます。まさに社会人の原点でした。
入行1年目
埼玉法人営業部のメンバーと
学生時代、親から新聞のマーケット欄を見てみろ、と言われたことがあり、それを機に読む習慣となっていました。大学3年生の頃、そこに外為のコラムがあり、会社名などは覚えていなかったのですが、現市場事業部門長である小池専務(当時グループ長)の記事があった。今思えばそれがこの仕事との最初の接点だったかもしれません、これは本人にも話したことはないんですが。もちろんディーラーって大きなお金を動かすすごい仕事だなというイメージもあり、市場営業部門に漠然とした憧れがありました。そのように憧れていた市場営業部門でしたが当初、研修生として送り込まれたときは、まるで違う会社に転職したような感覚でした。フロアには常に相場に張り付いている緊張感があり、みんな何かをつぶやいたり、話したりしている。しかも、その言葉が日本語なのに全くわからない。すごいところに来てしまった、と思いました。
社会人3年目、念願のスポット為替ディーラーに。最初はチーフディーラーのアシスタントからスタートしました。その方がすごく厳しくて、よく叱られました。取引は一瞬の勝負。電話は2つ、片方英語で片方日本語、その場でディールしないといけない。そういう中で若手にこうやってやるんだよ、なんてないわけです。𠮟られても、何もできない、何もわからない毎日でしたが、相場が好きな気持ちは一切消えなかったし、そのすべてが刺激的で楽しかった。すごくきつい、だけど、楽しい、これは体験しないとわからないことかもしれません。徐々にゆっくりですが理解し、成長できていく自分が嬉しかったことも覚えています。
ディーラーと言えるようになって半年後、遭遇したのがリーマンショック。9月の三連休で日本では祝日に起こったのですが、SMBCの市場営業部門の幹部全員がディーリングルームに集まっていたことを覚えています。毎日、円相場が数円乱高下し、いつも涙目でディーリングしていました(笑)。私がそのとき実感したのは、「絶対」はない、ということでした。普段、金融市場が正常に機能していることは当たり前であり、それが崩れるなんてことは想像すらしたことはありませんでした。しかし、目の前の金融市場から流動性が枯渇していく、それを目の当たりにしました。詳細に話すと、銀行はインターバンク市場でドルの受け払いを日常的に行っているのですが、危機時には金融市場の基本中の基本であるこのお金の動きが止まり、流動性が枯渇する。そうすると、一般的に送金するためのドルが不足し、決済が滞ってしまうことがあるためマーケットは疑心暗鬼になり、更に不安が連鎖してしまう。つまり、当時は大前提である金融システム自体が崩壊する可能性もあったのです。リーマンショックでの教訓は、いつ世界自体がひっくり返ってもおかしくないということ。絶対はないというのが私の根底にあるのは、このリーマンショックでの経験が大きかったと思います。
新興国通貨のトレーディングに特化した新設グループへ異動。それまでは円やドルがメインだったのですが、韓国ウォンやブラジルレアルなどの取引を行っていきます。アメリカがリーマンショックの後遺症を引きずっており、投資資金が新興国にどんどん向かっていった、おそらく新興国が最も期待されていた時期だったと思います。このときに勉強したのが、各国の規制や経済・金融政策等。たとえば、韓国ではアジア通貨危機で国内の資金が外部流出してしまう経験をしたため、韓国国外で自由にウォンを売買できない規制がかかっています。何が良くて何がダメなのか、そのような規制は国によって微妙に違ったりしますが、違反するわけには絶対にいきません。為替ディーラーと言っても、各国の規制などに精通している人材はマーケットでも本当に少ないので、専門性を磨けた貴重な体験だったとも思っています。
ニューヨークは、英語も自信なくて、全然行きたくなかったというのが本音です(笑)。ニューヨークのローカルディーラーが諸事情により仕事から離れるというので、1年だけ行ってくれと言われて、渋々という感じでした。東京で経験値を積んできていたので仕事面での不安は全くなかったのですが、それよりも心配なのが生活。到着したら、いきなりマイナス25度とものすごく寒い。大雪で積もる中、家がないので探し周る・・・そんなスタートでした。振り返るとこれもいい思い出なのですが。そして、年が明けて3月、私はニューヨークで東日本大震災のニュースを知りました。異国で見る日本の惨状。通勤中には、日本人とわかるや否や知らない人たちから同情されて抱きつかれたこともありました。マーケットはその後、リスクオフとなり、無慈悲にドル円レートが75円台まで到達するのを間近で経験。このときのことも鮮明に覚えています。円が戦後最高値を更新する攻防を見ていたのですが、最高値に到達した瞬間にレート表示がスクリーンから消えてしまったのです。皆さんも為替のレートはスマホで簡単に表示できると思うのですが、そのプライスがない。ない状態って考えられない、でも手を止めるわけにはいかないので、ドルを買いにいった。そうしたら78円、次に買ったら77円、次は76円と瞬間的にとんでもなくレートが動く体験をしました。後にお話をしますが、この円高の流れは2012年に一気に転換し、円安に向かっていく。大きなトレンドの変化という貴重な経験をしました。
当初、1年だけということで赴任したニューヨークでしたが、結局、3年半いることになります。結局、前任のディーラーは帰ってきませんでした(笑)。私自身、その頃にはニューヨークでの毎日が楽しくなっていた。ここで、ディーラーって普段、どういう生活してるかを話したいと思います。とにかくずっと誰かと相場観を喋っている、これに尽きます。ディーラーって銀行内でのコミュニティより、外資系銀行や証券会社、ヘッジファンドの人など、外の付き合いが多い。結局、相場とはマーケットに参加している人の心理状態を反映していると思います。その意味でも、どれだけたくさんの人と話をして、適正水準はどこかという感覚を自分の中で作っていくのか、これが欠かせません。プロのディーラーとか投資家がどう感じているかを常にインプットし続け、自分もアウトプットしていく。しかも、相場は止まることなく動いているもので、毎日相場観を塗り替えていくのが大事なのです。そして、ニューヨークでもう一ついい経験だったなと思うのは、直接、お客さまと触れ合えたこと。日本だと営業部員がディーリングルームに来て、ちょっと教えてよ、ということはありえないんですが、ニューヨークは距離が近かった。エレベーターで一緒になると、「お客さまのところに行くんだけど、円高になるのかな?」とか尋ねられる、そんな日常でした。好奇心の強さもあり、「だったら、一緒にお客さんのとこに行きますよ」と言ってしまうんですね。そうして、西海岸やメキシコなどのお客さまを訪ねて実際にセミナーも開催しました。ディーラーの仕事は自分で取引するだけでなく、お客さまにプライスを提供するという面もありますが、後者は間に営業担当がいるため直接話をする機会が限られるのですが、本当に何に困っているのか、どうなったら困るのかは、直接、話をしないとわからないことも多い。「通貨安は困りますよね」、「いやでも実際はここぐらいまでは大したことないんですよ」という話を聞けることってほんとにすごく大切なんですね。このように、ニューヨークは楽しい、いろんな経験ができた時代でした。
2011年 ニューヨーク支店のクリスマスパーティにて
2012年 上司、ローカルディーラーと
2013年 メキシコ出張時 メキシコ・西海岸駐在の方々と
ニューヨークに駐在する前に所属していたグループへ帰任するのですが、担当したのは為替ではなく新興国の金利デリバティブ取引。それなりの年齢でそれなりの経験をして帰ってきたので自信がありましたが、デリバティブという新しい取引に取り組んでみたら、よくわからないことだらけ。全然わかってなかったんだということを帰任してから1年間は身をもって実感しましたし、一から勉強もしました。ディーラーと言っても株、為替、金利のそれぞれで全く異なる世界が広がっているというのを体感しました。
2014年 私の帰国送別会
現地駐在、ローカルディーラーの方々と
2020年 経営企画部のメンバーと
市場営業部門外に出るのは12年ぶり。しかも、経営企画部、全銀協会長行室・・・。全銀協の会長は一年ごとにメガバンク3社が持ち回りで受け持つもの。当時、SMBCでは就任する半年前から準備のため室が立ち上げられ、離任とともに室も解散されるため、1年半という任期は明確に決まっていましたが、与えられたミッションが、英国当局がこれまで市場で幅広く利用されていた金利指標であるLIBORの公表停止を宣言したので、対応策を作りあげろ、というもの。正直、「どうすればいいんですか?」という気持ちでした。
ちなみにLIBOR公表停止とはどのようなものかというと、みなさんの生活の重要なインフラ、携帯電話をすべて廃止すると宣言されたくらいとイメージしてください。銀行、証券会社・・・様々な企業が4、50年使っていたものが公表停止となるため、新しい金利指標への移行を推進する金利指標改革を行わないといけない。慣れ親しんだ部門を離れ、そんな大命題に丸裸にされて放り込まれたという感じです。そこで、何もわからない中、私が何から始めたかと言うと、このチームに関係ある人たちにまずは名前を覚えてもらおうと、片っ端から電話に出ることから。ここにきて、入行一年目で学んだことが生きたんですね。そして思ったのは、結局リズムだなと。リズムさえつかめれば、輪には入っていけるんです。そうしているとすごく楽しくて。「頭取にちょっとこれ説明してきて」と言われて直接説明に伺うというのは、今まで考えられなかったですし、当局はもちろん、他メガバンク、地銀、また、今までコミュニケーションをとることがなかった行内の他部門、グループ会社などと、とにかく視座を高く持って議論を交わしていく中で、多様な関係が広がった。これは市場営業部門にずっといたら築けなかった自分の財産だと思いました。ディーラー以外の仕事を楽しむことができる、とは想像したこともなかったので、本当に人生が変わった異動でした。
2020年 経営企画部のメンバーと
2020年、経営企画部から市場営業統括部に帰任した当初は企画グループへ。SMBC行内でのLIBOR問題の対応や、市場営業部門で働く人たちのエンゲージメント向上やコロナ対応、新興国通貨の規制緩和対応などに取り組みました。これはこれで面白かったです。ただ自分のスペシャリティはトレーディングだと信じ、わがままばかり言ってましたね。そして一年後、外貨金利トレーディンググループ長に。念願のトレーディング部署でのグループ長になったわけですが、SMBCではただ座ってマネジメントに専念しているわけにはいきません。自分自身がディーラーとして一番収益をあげていかなくてはいけない存在。私自身、今までそのような上司の背中を追いかけてきましたし、追いかけられるような背中を今度は自分が見せていかないといけない、そのような大きなプレッシャーを背負って取り組んでいました。
トレーディングの道を歩んでいくんだ、と思っていたところに、いわゆるバンキングの外貨債券グループへ異動。実は当グループは自分にとってすごくアレルギーを持っていた場所です。というのも、2006年に部門に来たときに、トレーニーとして3ヶ月間だけお世話になり、その際に「当部だけでなく他部も経験したほうがいい」と出された経験があったから。それに、当グループは収益インパクトも大きいグループで、責任も大きい場所でもありました。これまでとは規模も桁違いで、しかも苦手意識があったグループへポンと放り込まれたわけです。私がそこでグループ長をやり、巨大なポートフォリオを担うなんて夢にも思ってなかった。ただ、これは決して楽なんてできない、キャリアの中で越えなければならない壁なんだろうと勝手に感じています。これまでもそれなりに修羅場はありましたが、今回は本当にプレッシャーが大きい。何度修羅場を経験しても毎回不安になる瞬間はあるのですが、同時にせっかく任せてもらっているんだから、リスクを恐れず大胆にやってみよう、この環境さえも楽しむしかないという気持ちがあります。結局、楽観的なのかもしれません(笑)。高インフレ・高金利という環境は債券の敵ではありますが、先入観や常識にとらわれず、この厳しい環境を存分に楽しんで、徹底的にやり抜く、そしてこの経験で感じたことを部下や後輩の方々に伝承していきたいと考えています。
途中のニューヨークの章で少し触れた、2012年以降の円安に関する経験について、もう少しお話したいと思います。リーマンショックの後、円高で株安というのが普通でした。東日本大震災もあり、私の実感値ですが、世間の雰囲気、社会が非常に暗かったという印象があります。もちろん海外旅行は行きやすかったですが、どんな企業も儲からなくなり、空洞化して日本から外へ、みたいな空気が流れていたと思います。そして、この円高・株安の状況は変わらないだろうと私自身も思っていた。そこにアベノミクスによる相場変動が起こります。総理大臣と日銀総裁が代わり、政策が動いた途端、これまで変わらないと思っていた円高・株安が円安・株高へトレンドが大きく変化する。当時はそう簡単には結末を想像できませんでした。言いたかったのは、私はこのような経験を若いディーラーにも引き継いでいかないと、と思うからです。たとえば、私自身、現在の経験したことのないインフレ相場に臨むにあたり、数十年前、高インフレ時代のアメリカの中央銀行で政策に従事されていた方の話を聞きました。過去の教訓というのは、この世界において絶対に必要だと思っています。歴史は人から人に受け継がれていくもの、その中で何を感じ、何を表現していくか、それが相場。最良かどうかはわかりませんが、これからを歩む若いみなさまには私の経験をお渡ししていきたいです。若いうちから自分の相場観でリスクをとってディーリングできる銀行は限られていると思います。他の業態や外資を探しても若いうちから大きいポジションを任せてもらえるところは、少ないのではないでしょうか。上から言われたことをこなすだけのディーラーを嫌うSMBC。それは逆に、大変で苦しい道かもしれませんが、でもそれが私はすごく楽しいんだ、と、胸をはって言えます。
私が就職活動をしていた当時は金融ビックバンと言われていた時代でした。今もそうですが、私の根底には新しいものが好きだという気持ちがあって、金融制度改革により先が見えず就職先としては不安だという声も友人からは聞こえてきましたが、私はこれから金融が大きく変わるのなら面白いのではないか、と考え入行しました。入行したのは住友銀行でしたが、3年目のときに住友銀行とさくら銀行の合併のニュースが流れてきて、「えっ!?」とまさにビッグバンだった(笑)。と、冗談はさておき、今とは違って、窓口業務から学んでいくのが基本でしたので、1年目は窓口業務、2年目は中小企業への渉外業務、3年目は個人のお客さまへのファイナンシャルプランナーとして運用のご相談を担いました。一生懸命貯蓄したお客さまが運用で資産形成したいと相談に来られましたが、大切なお金を守るために逆に運用しないほうがいいと判断した場合にはそれをちゃんとご説明したところ、大変感謝してくださるお客さまもいらっしゃいました。お客さまに寄り添っていく、そのような基本姿勢を身につけた時期でした。
ファイナンシャルプランナーとしてお客さまに寄り添って働く中で支店長から初めての異動通知を受領しました。異動先は事務統括部(大阪)。つい「支店長は私が事務を得意でないことをご存じではないですか」と言う私に対し、「まあ、そういう知らない人間が行ったほうが変わるんだよ」と言われ、そんなものかと、つい納得したのを覚えています。その後、事務統括部(大阪)に着任し、店頭事務の集中処理などを行う事務系関連会社の運営や企画業務に携わることで事務の効率化に取り組み、2003年には同様の仕事の担当として大阪から東京の同じ部に異動しました。
東京に異動した後も、大阪勤務時と同様に事務に関する効率化企画をする業務を担当していた時、システムに精通された副部長がおられ、その方から「システム詳しくなりたいだろ?」と言われたことがありました。そんなことから、事務系システムの共通基盤化を担当するように。当時、振込システム、口座振替システムなど事務系システムが複数存在。それぞれのシステムが単独に開発、稼働するシステムでしたが、複数のシステムの共通部分を共通基盤化しながら、それぞれの業務アプリケーションに新しい技術を導入して効率化を図ることがミッションでした。まさに私のシステムに関わる人生のスタートといえる仕事です。それまでシステムには全く関わりがなかったので、一から勉強しました。システム開発ベンダーと少しでも対等に語れるように常に心掛けており、その気概で新しいことを勉強することは今でも続いています。アグレッシブに挑んでいく、そのようなマインドを鍛えられたのもこの時でした。上司からは「ゼロから考えて、新しいことをやれ」と常に言われ続け、その中でLinuxサーバーの導入や分散コンピューティングなどの採用や、伝票を漢字やカタカナなど入力種別ごとにイメージを分解し、OCR技術を活用したイメージOCRエントリーを採用し、関連する特許も取得。ゼロベースで考えていく姿勢の大切さを、身をもって学びました。
事務部門から10年ぶりのリテールへ。ローンセンターの運営企画を担った後、リテールにおけるお客さま獲得に取り組みました。具体的には、例えば住宅ローンに興味がありそうなお客さまを探すためのコールセンターのアウトバウンド架電やバナー広告といったデジタルマーケティングの展開です。新しいことにチャレンジしようという気持ちで様々な施策を企画し、取り組んでいった記憶があります。このときにコールセンターとの間で築いた関係が後々、役立つのですが、それはもう少し後のことです。
ここまでは業務部門のシステム担当という位置づけでしたが、異動したシステム統括部は業務部門システムだけでなく、銀行全体で利用するシステム企画を行う部門です。そこで最初に取り組んだのが渉外担当者へのタブレット端末導入です。これは渉外担当者が外訪先においても行員の顔認証機能による高いセキュリティを確保しつつ、住宅ローンの返済額シミュレーションや投資信託の商品概要、最新のマーケット情報など幅広い情報を即座に、アニメーションや動画を用いてご案内できるようにしたものです。営業スタイルを変えていく働き方改革を目指しました。当時はお客さまへ外訪する際に大量の紙によるパンフレットや契約書が必要で、一枚でも足りないと約定できないといった問題がありました。それをタブレット一つで電子的に約定できるように開発。これは他行などに先駆けて取り組んだものであり、先程のイメージワークフローシステムとともに、関連する特許を取得したものです。新技術やシステムを活用して働き方を変えていく、そのような取り組みに注力していたのがこの時期でした。
私が銀行に入って面白いな、と思うのは、経営の方向性の中で、具体的な施策はそれぞれの担当が自ら考えられることです。当時、取り組んだワークプレイス環境(OAシステム)の更改プロジェクトもまさにそうでした。それまでは、メールやチャットなどはそれぞれ独立したシステムアプリケーションでしたが、私はマイクロソフト社のMicrosoft365はメールやチャットはもちろん様々なコミュニケーション機能があり、これを活用することで私たちの業務生産性も上げることが出来て、かつ以前のものを更改するより費用面でも削減できるのではないかという思いがありました。この思いを確信に変えるために、マイクロソフトや様々なシステムベンダーの担当者と議論を重ねに重ねました。その中で一番、議論したのはどう働き方を変えることができるのかということ。モバイルの活用やTeamsでのチャットや会議・・・当時の銀行では自分の席でビデオ会議というカルチャーがなかったところに、そのような整備をすれば働き方は変わっていく、そのようなAs is To beを描くことに注力しました。ワークプレイスは全従業員が毎日利用するベースシステムであり、これの刷新は一番働き方を変えていくことができるはず、そのような心意気で取り組んだ仕事だったと思います。このようにスピード感をもって導入したことで、早くから外部のお客さまとの面談や部門の会議や各部との打合せを会議室でなくTeamsなどを活用してリモートで行っていました。このあとに新型コロナが流行するのですが、現在も当然のように利用されているのを見ると他社に先がけて一生懸命やって良かったと心から思える仕事の一つです。
Microsoft365へのリプレイスを実現した後、取り組んだのがIBM Watsonを活用したコールセンターの電話応対の高度化です。機械学習を活用した応答照会業務システムを活用するうえで大変苦労したことの一つとして、POC(Proof of Concept:概念実証)から本番環境での利用への移行があります。PoC実施時点に比べ、本番導入後は想定もしない質問や学習したことのない知識などが増えることで、正答率が下がってしまいます。この正答率をどう引き上げて、利用したいと思ってもらえるシステムにしていけるかが重要でした。このときに役立ったのが、4年前のリテール事業部時代に築いたコールセンターとの関係です。みなさんの中には機械学習という言葉から現場で使っていけば次第に改善されていくイメージをお持ちの方も多いかも知れませんが、実際はそうはいきません。なぜなら、「いいね」が押されなかった理由一つとってみても、単純に答えが間違っていた、そもそも答えられていなかったなど、様々な理由があるからです。そこで現場のコールセンターの方々と議論を重ね、対応策を協議。そしてコールセンターのプロである2名の方にこのシステムの教師になったいただき、うまくいかない理由を整理し、それに対して必要なナレッジを教育していただきました。一つひとつ丁寧に愚直に取り組んでいく日々でしたが、それにより、正答率は飛躍的に向上したことで今では業務に欠かせないシステムの一つになったことは非常にうれしいことですし、いわゆるAIシステムをいろいろな角度から勉強させて貰った案件だと思います。ITやテクノロジーというとスマートな印象があるかもしれませんが、結局は利用者や開発者が両輪となって一歩一歩、前に進んでいくことが欠かせないものだと私は感じています。
この時期にもう一つ取り組んだのが、行内の電話照会応答を高度化するためのチャットボットの企画です。電話で紹介した際に担当者が話中であれば照会はできません。ですがAIチャットボットであれば自然にチャットを介して質問することで同時にたくさんの照会応答に対応することが出来ます。開発には色々な苦労がありましたが、高い正解率も実現し、照会応答業務が迅速かつ効率的に行えるようになり、照会応答業務の高度化/効率化を実現する発明として特許も取得しました。
現在はシリコンバレーで出会ったスタートアップと協働して、SMBCグループ各社の60以上の応答照会業務にチャットボットが導入されていて、聞きたいときに素早く適切な回答に辿り着ける欠かせないシステムインフラの一つになっています。
駐在当初の所属はシステム統括部、その後、デジタル戦略部へと変わり、現在ではシステム観点のみならずビジネス開発も含めた取り組みを展開しています。元々のミッションは情報の交差点であるシリコンバレーでベンチャーキャピタルやアクセラレーターとの連携を通して、先端テクノロジーやビジネスのトレンドを調査し、デジタル戦略部や各部と連携した事業開発やDXの企画をミッションとしています。この活動を行ううえで重要なことは、業務部門が困っている、またはやりたいことを良く聞いて、一緒に考えることです。
こうしたヒアリングを通じて把握したニーズやペインポイントを解決するソリューションの探索と技術評価、本番導入に向けた企画をスピード感をもって行うために、業務部門の担当者がシリコンバレーに3ヶ月間、長期出張できるプログラムを用意しています。シリコンバレーデジタルイノベーションラボという名前の通り、最先端の知見でSMBCの新たなイノベーションを主導していく、そのような存在でありたいと思っています。今までに実現したものを挙げると、最近ではCO2排出量の可視化サービスや気候変動リスク分析ソリューション、システムセキュリティやデータ/自然言語分析ソリューションなどさまざまな領域でシリコンバレーを活用した案件が進んでいます。
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シリコンバレー出張所着任直後
こうしたヒアリングを通じて把握したニーズやペインポイントを解決するソリューションの探索と技術評価、本番導入に向けた企画をスピード感をもって行うために、業務部門の担当者がシリコンバレーに3ヶ月間、長期出張できるプログラムを用意しています。シリコンバレーデジタルイノベーションラボという名前の通り、最先端の知見でSMBCの新たなイノベーションを主導していく、そのような存在でありたいと思っています。今までに実現したものを挙げると、最近ではCO2排出量の可視化サービスや気候変動リスク分析ソリューション、システムセキュリティやデータ/自然言語分析ソリューションなどさまざまな領域でシリコンバレーを活用した案件が進んでいます。
先ほど自然言語分析ソリューションのお話をしましたが、シリコンバレーにあるアクセラレーターであるPlug and Playで行われたWinter Summitで出会ったAllganize社のCEOとは正にシリコンバレーらしい出会いと関係です。たまたま聞いたCEOのピッチを聞いて非常に面白いソリューションだと感じて、機会があったら話をしようと思っていたところ、食事をした際に隣に座られたのが偶然そのCEOでした。私たちが抱える自然言語処理への期待と課題感について思い切って話をしたところ「解決できる」と。そこで簡易検証を行ってみると、学習に係る業務負荷が大幅に削減されることを確認。その後の実テストでも大きな効果を実証できたため、SMBCグループでの実用化へ。このようにシリコンバレーでは先端技術を保持する有力スタートアップと会話できる機会がありますが、その機会を無駄にしない為に、誰がどんなことをやりたがっているとか、こんなことで困っているということを頭にいれて、常も行動するようにしています。このケースでは日本で自分が担当したものが、シリコンバレーでさらに進化させることができたことに、自分の歩みとともにという感慨深さがあります。
自分のキャリアをこうして振り返ってみて思うのは、入行当時は思いもしなかった場所に歩んできたなと(笑)。こういうキャリアを歩みたいと思って辿り着いた場所ではなく、ただ自分を狭めず、広げてきた結果ですね。こうしてシリコンバレーでデジタルイノベーションラボの所長をしていますが、私は理系出身ではありません。ただ、新しいものが好き、それだけで進んできました。そして、システムの仕事に携わらせてくれた当時の副部長や数々の先輩方やITベンダーの皆さまなど、様々な出会いによって、今に至りました。Microsoft365にリプレイスするとき、マイクロソフトのシアトル本社で50代くらいのSkype開発責任者が「今が一番楽しい」と話をされていたことが強く心に残っています。私は既に若い皆さんとは年齢は大きく離れていますが、何歳になっても、新しいことにチャレンジしながら「今が一番楽しい」、そう思って仕事ができるように成長し続けたいと思っています。皆さんはたとえば、これからSMBCに入ると、おそらく私よりも思っても見なかったキャリアを歩むことになるのではないでしょうか。でも、変わる中に飛び込んでいける、こんな面白いことはないと私は思いますし、みなさんにもそれを楽しんでほしいなと。きっと「今が一番楽しい」未来を歩めるはずなので。あと、もう一つだけデジタルイノベーションを担う者としてみなさんに伝えたいのは、デジタルの世界の最後には人がいて社会があることを忘れないでほしい。どんなにデジタルな世の中になろうと、リアルの人がいてそのためにサービスがあるという基本は変わりません。そしてお客さまが利用されたい便利なサービスを追求するには、変わる時代の中で常に新しいことに挑戦し続けなくてはいけません。今、いいサービスを出せていると思考停止した時点で歩みは止まってしまうのです。お客さまのために、そこにゴールはないのですから。
※掲載の仕事内容、役職、所属は取材当時のものです。